八宮神社からコインパーキングに戻ると、まさにその斜め前に出雲大社神戸分祠がありました。
周辺の寺社仏閣を検索した際にこの付近にあることは知っていたんですが、まさにドンピシャという感じでした。
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出雲大社神戸分祠へ
写真で伝わるかと思いますが、少々どころか相当入りづらい雰囲気ではありましたが、これも何かの御縁と思い切って山門を潜りました。
正面奥に見えるのが拝殿ですが、参道(通路?)左側は、神職さん宅の駐車場になっており、神社らしい雰囲気を感じさせるのは右側だけでした。
手水舎
これは、風流な感じのする手水舎でしたので、マナーに従い手を清めさせていただきました。
夕刻とはいえ、1日熱い思いをしてきたので、ひんやりしてありがたかったです。
井戸
手水舎の隣は井戸がありました。
簾で蓋はしてありましたが、ロープの感じなんか見ると稼働できそうな感じですね。
石灯籠
そして、井戸の隣には一基の石灯籠がありました。
特に謂れは無さそう…。
拝殿
ということで、あっという間に拝殿にたどり着きました。
写真の通り見たまんまのシンプルな拝殿でしたので、中に入っては撮影しませんでした。
主祭神
島根県の出雲大社の分祠なので、大国主大神の御分霊が祀られています。
いわゆる大黒様であり、因幡の白兎を助けた神様として有名ですね。
しかし、地元の人の間では「神戸の大国さん」と呼ばれているのかと思いきや、「神戸のいづもさん」の愛称で親しまれているそうです。
大国主大神は、国造りの神・縁結びの神・福の神・商売繁盛の神・医療、医薬の神・農耕の祖神・温泉の祖神・醸造の神・国譲りの神・幽冥主宰大神と数々の御神徳・御利益をもたらせていただける神として古来より崇拝されています。
創建と歴史
出雲大社第80代出雲國造にして出雲大社教の初代管長を務められた千家尊福公は、明治の時代に日本全国津々浦々まで巡教して周られたそうです。
尊福公は、ココ神戸にも巡教に立寄られ、人々に出雲様への信仰を広められました。
そして、1895年に現在の地に神戸教会所が開設され、大国主大神の御分霊を祀られたのが、出雲大社神戸分祠の始まりです。
その後、1938年には阪神大水害により神戸教会所は天井まで浸水し、壊滅的な被害を受けます。
しかし、多くの信者たちの尽力があって、1940年に現在の総檜造りの神殿が再建され、第3代管長である千家尊有公の御巡教をいただき、大教会(分院)に昇格します。
翌1941年には、戦争に入り、神戸大空襲により神戸の街の8割以上が焼失しましたが、神戸分院は奇跡的に焼失を免れるとともに、町内からは一人の戦死者も出さなかったことから、当時の町内会長が「出雲様の御守護の賜物である」とし、町民を引き連れて参拝に訪れたそうです。
そして、1950年には出雲大社神戸分祠に昇格を果たします。
創立100年目を迎えた1995年1月17日には、阪神淡路大震災が発生し、この地は震度7の地震に見舞われました。
しかし、このときも神社建築特有の木組み工法による神殿は、組木部分が外れ、土壁が倒壊し屋根瓦は全てずれ落ちはしましたが、奇跡的に倒壊することはありませんでした。
千家尊福公
ところで、創建に深く関わった千家尊福公ですが、実はお正月によく聴く歌「と~し~のは~じめのためしとて~、お~わりな~きよのめでた~さを~まつたけた~てても~んごとに~い~おうきょ~うこ~そたのし~けれ~♪」(年の初めの試しと手て、終わりなき世のめでたさを、松竹たてて門ごとに、祝う今日こそ楽しけれ♪)の作詞を手掛けた方だそうです。
私は歌は知っていますが、タイトルは知らずで、調べたら「一月一日(いちげついちじつ)」というタイトルだそうです。
御朱印
参拝を終え、社務所はご不在だったので、ご自宅のインターホンを押すと、しばらくして宮司さんが出てきてくださいました。
「御朱印を頂戴したいんですが」と伝えると、「どうぞお上がりください」と家内に通され、大広間に通され、「え?大国主大神の御分霊ってこの部屋に祀られてるの?」という展開に。
そして「こちらにお座りください」とおっしゃられたので、「膝が悪いんで正座できないんですが大丈夫ですか?」と尋ねると、ご親切に椅子をご用意してくださいました。
そして、白いビブルス的なものを被らされ、御祈祷をしていただきました。
あくまで簡易的な御祈祷なんでしょうが、作法も知らないし困りながらも、見様見真似で四拍してお詣り。
その間に直筆御朱印を書いてくださいました。
帰り際には、出雲大社発行の「いづ暦」なる冊子と御餅を頂戴しました。
ご親切なご対応をいただき、ありがとうございました。