安井金比羅宮へ
実は、六道珍皇寺で住職さんと結構お話をしていたので、時間が無くなってまいりました。
しかし、この辺りは寺院だけでなく神社もあるので、予定していた高台寺は断念して、東に向かって東大路通を少し北上して徒歩5分ほどで行ける安井金比羅宮に向かいました。
正面石鳥居
言っても学生時代のことですが、何度か車で前を通った記憶があるのですが、改めて社号標を見てもかなりの歴史を感じさせてくれる神社です。
鳥居の足が四角形なのが特徴的ですね。
狛犬(阿形さん)は珍しくベロ出しですが、目がイッテしまってる様な…。
鳥居を潜ってから、拝殿まで結構長い石畳の参道と駐車場が続きます。
創建
天智天皇の時代(668年~671年)に藤原鎌足が一堂を創建し、紫色の藤の花を植え、家門の隆昌と子孫の長久を祈り、藤寺と号したことが安井金毘羅宮の始まりです。
平安時代には、崇徳天皇が特にこの藤を好まれ、1146年に堂塔を改修・建立し、寵妃である阿波内侍を住まわされましたが、1156年に保元の乱で後白河天皇に敗れた崇徳上皇は讃岐国に流罪となり、阿波内侍に自筆の御尊影を下賜されました。
その後、讃岐国にて崇徳上皇が崩御されると、阿波内侍は嘆き悲しみ、出家した上、下賜された御尊影を藤寺観音堂に奉納し、塚を築いて遺髪を埋めたといいます。
1177年、藤寺観音堂に大円法師が参拝した際、崇徳上皇が霊として現れ、往時の盛況を示したため、直ちに後白河法皇に奏上され、法王の命により健治年間(1275年~1277年)に崇徳天皇を祀る光明院観勝寺が建立されました。
光明院観勝寺は、応仁の乱の兵火により荒廃しますが、1695年に京都太秦にあった蓮華光院がこの地に移築され、その鎮守として崇徳天皇、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主大神、源頼政を祀り、「安井の金比羅さん」の名で知られる様になりました。
明治時代に入ると、神仏分離令により、蓮華光院を廃し、「安井神社」と改称、更に第二次世界大戦後に「安井金比羅宮」と改称しています。
南側石鳥居
境内南側の石鳥居です。
この周辺ではよく見かけますが、ちょうど晴れ着姿のお嬢さんお二人が人力車に乗って界隈を散策中でした。
さすがに、正面からは撮影できませんでしたけど…。(·∀·)
拝殿と主祭神
拝殿の様子です。
この日の境内は、結構な人で賑わっていたので貴重な無人の時間にサッと撮影できました。
しかし、この拝殿…
そのまま脇を通り抜けると、本殿に直接参拝できるというナゾの仕組みです。(·∀·)
あえて言えば、拝殿には御賽銭箱があり、本殿には無かった様な気はしますが。
ちなみに、この写真を撮ってから境内を一周して、再度参拝に来たときには10人ほどの行列ができていました。
主祭神は、崇徳天皇・大物主神・源頼朝公の三柱。
崇徳天皇は、讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切り参籠されたことから断ち物の祈願所として古くから信仰を集めるとともに、御自身が戦のために愛する阿波内侍とお別れにならざるを得なかったことから、人々が御自身の様な悲しい境遇に遭わない様に、幸福な男女の縁を妨げる全ての悪縁を断ち切ってくださるとされています。
大物主大神は、海上安全・交通安全の御神徳をお持ちです。
ところで、源頼政公はなぜ祀られているのかと疑問があるのですが、源頼政公は保元の乱と平治の乱で勝者側に属し、平氏政権下においても源氏の長老として平清盛に信頼されていましたが、平家の専横に世の中に不満が高まる中、後白河天皇の皇子である以仁王と結び、諸国の源氏に打倒平氏の令旨を伝えたものの、計画が露見したために準備不足のまま挙兵せざるを得ず、最終的には宇治平等院で敗れ、自害しています。
実は、安井金比羅宮は源頼政公ではなく、以仁王との所縁が深く、創建のところで書いた蓮華光院の初代住持である道尊僧正が以仁王の遺児であったためと考えられています。
北側鳥居
北側鳥居の社号標は、旧名称の「安井神社」のままでした。
安井金比羅宮 情報 by 関西御朱印 ブログ
京都府京都市東山区下弁天町70
TEL:075-561-5127
無休
参拝料 無料
参拝時間 24時間可能
社務所受付時間 9:00~17:30
初穂料 300円
公式ホームページ 安井金比羅宮 (yasui-konpiragu.or.jp)
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