本人は特に巡っている意識は希薄なままですが、何となく真田幸村めぐルートに乗っております。
「真田幸村めぐルート」に関しては、コチラのページをご参照ください。
三光神社 真田丸の一角に鎮座する大阪七福神巡りのスタート地点 – 関西御朱印 ブログ (kimikan.com)
どんどろ大師 善福寺のご住職さんに「お寺って敷居が高いんですよね~。」なんてお話をしたら、「ウチのすぐ東の坂を上って行った興徳寺さんなら入りやすいし、御朱印も確実に頂戴できますよ。」とありがたいアドバイスを頂戴しました。
しかし、言われた通り坂を上っていくと、
興徳寺の北側の真隣に心眼寺さんなる寺院がありました。
心眼寺へ
お薦めされなかったのは、留守がちだからかまさに敷居が高いのか判然としませんが、ひとまず階段を上って仁王像を拝見してみることに。
右側の仁王像(阿形さん)の前には、やはり「真田幸村出丸城跡」の石碑。
真田山の最西端となるこの地には、1945年の大阪大空襲で焼失してしまったそうですが、真田幸村が鎧をかけたという松の木があったそうです。
しかし、最近の研究では逆に心眼寺のある場所が真田丸の最東端だったのではないかという説もあります。
最初の写真は、大阪明星学園のグラウンドを背に撮影したものですが、現在の大阪明星学園の敷地こそが真田丸の中心地であったとする説です。
左側の仁王像(吽形さん)の脇には、京都見廻組 桂早之助・渡辺吉太郎墓所という石碑。
桂早之助・渡辺吉太郎ってあの桂早之助・渡辺吉太郎ですか?
と、俄然興味が沸いてまいりました。
建立
一眼寺は、1622年に白牟和尚により大坂夏の陣で没した真田幸村・大助親子の冥福を祈るために阿弥陀仏座像を御本尊として建立されました。
本堂は扉が閉まっており、そのお姿は拝見できませんでした。
白牟和尚は、真田家の祖先にあたる滋野氏の一族と言われています。
しかし、当時の大阪は既に徳川家の配下となっており、豊臣軍として戦った真田幸村・大助親子の墓所を造ることは許されませんでした。
真田左衛門豊臣信繁之墓
結果的に、真田幸村の墓所が建立されたのは、2014年10月とつい最近のこと。
驚くべきことに、その400回忌を記念して、墓所が建立されたそうです。
墓所の由緒書きには、一般には「真田幸村」として知られるが、生前に「幸村」と名乗った記録は無く、現存する最後の書簡にも「真田左衛門佐信繁」と署名されていることから、豊臣家の有力大名も称した豊臣姓をつけ、「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」とした旨が記されています。
ところで、真田家の家紋であり、一眼寺の寺紋でもある六文銭ですが、これは死者が三途の川を渡る際の船賃として有名であり、戦いに臨む武士の決死の覚悟を示した家紋であると言われています。
京都見廻組 桂早之助・渡辺吉太郎墓所
桂早之助・渡辺吉太郎の墓所があると知り、境内に入った来た私。
男の子は、みんな幕末大好きっ子ですから。
実際の墓所がコチラ。
ところで、京都見廻組と新選組は混同されがちですが、京都の治安維持・反幕府戦力の弾圧という目的は同じですが、京都見廻組が幕臣により結成されたのと新選組が町民・農民出身の浪士を中心とした組織であった点が大きな違いです。
京都見廻組は幕府公認の正規組織であったのに対し、新選組は京都守護職にあった会津藩主である松平容保の庇護の下で結成されたとはいえ、非正規組織に過ぎませんでした。
従って、目的は同じでも、京都見廻組が御所や二条城といった官庁街を管轄し、新選組が祇園や三条といった町人街・歓楽街を管轄とし、交わることはほぼありませんでした。
交わったところで、身分の違いによる諍いがあったことは容易に想像できます。
しかし、京都見廻組の中にも函館戦争まで戦い抜いた者もいるそうです。
で、件の桂早之助・渡辺吉太郎というのは、1867年近江屋事件において坂本龍馬を斬ったとされる人物に含まれる2人です。
一眼寺は、日本史に名を残す人物の墓所が集う寺院ですね。
まんなおし地蔵尊
真田幸村が「間が悪い」と感じたとき、願をかけると願いが叶ったとされる地蔵尊です。
「間」が転じて「まん」となり、不運を幸運に変える運直し・げん直し・縁起直しの地蔵尊として信仰されています。
境内
境内中央は、
日本庭園の様な美しさでした。
また、京都見廻組2人の墓所の横には、香月観世音菩薩像が安置されていました。
御朱印
ご住職ご不在のためか、奥様から書置きの御朱印を頂戴しました。
ご住職に、京都見廻組の墓所が建立された由縁をお聞きしたかったのですが残念です。