七宮神社参拝後、周辺の神社を検索すると、車で数分のところに湊八幡神社が鎮座されているとわかったので、早速向かってみることにしました。
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湊八幡神社へ
しかし、カーナビに従って移動してみたものの、何となく遠回りしてる様な感じで、ようやく湊八幡神社の看板が見えても、駐車場が無いのでコインパーキングを探してウロウロ。
最終的には、神社南のちょっと細い筋を入ってすぐ右に折れたところにコインパーキングを見つけて駐車。
結局、神社から徒歩2分もかからない様な位置でした。
最初に見つけた看板は、大きく車でも十分視認できました。
この看板の手前を左折すれば良かったところを通り過ぎてしまったという次第です。
大通りに面した正面鳥居には、「八幡宮」という扁額が掲げられていました。
こうして見ると、神職さんのお家の車の後ろとかに駐車させていただいても良かったのかも知れませんが…。
創建
湊八幡神社の創建にも、生田神社を創建した神功皇后が深く関わっています。
三韓征伐の帰途に神戸に立寄られ、生田神社の創建を決意された神功皇后ですが、実はその頃、お腹に赤ちゃんがいらしたそうです。
しかし、そんな状態で精力的に、八社参拝等をこなしつつ生田神社創建の指揮を執られていたなんてスゴイですね。
ちなみに、このお腹の中にいた赤ちゃんこそが後の応神天皇にならせられます。
摂津国岡野村にお立寄られた際に、御子の誕生が近いと思った神功皇后は、その地の霊石をお探しになり、その御誕生の延期をお祈りすることとしました。
そして、その祈りが通じたため、その霊石を岡野村から現在の福原近辺にお迎えし、一社を創建、その後に現在地に奉遷され、当初は湊玉生八幡宮と称されました。
扁額の「八幡宮」は、その名残なのかも知れませんね。
拝殿
青空に映える拝殿の様子ですが、何やら白いモヤの様なものが入ってしまいました。
不吉?
何分古社であるため、江戸時代には荒廃し、改修が行われるとともに、1624年には再建されています。
1938年には規模が小さすぎるとして、境内地を314坪に拡張するとともに、拝殿46坪、社務所48坪に拡張し、神門、透塀、玉垣等が建築されました。
しかし、1945年の神戸大空襲により全て焼失するとともに社宝も失われています。
現在の拝殿は、1957年~1962年にかけて再建されたものです。
拝殿内の様子です。
そして狛犬(阿形さん)です。
主祭神
神功皇后が霊石に祈りを捧げ、誕生した応神天皇が主祭神として祀られています。
応神天皇は、八幡神と同一とされ、武運の神として武士に篤くしんこうされた神ですが、湊八幡神社は主に「厄除け」の神として信仰されています。
境内摂社
稲倉魂神を祀る稲荷神社と大物主神を祀る金刀比羅神社が置かれています。
迷い子のしるべ
かつて湊八幡神社は、旧西国街道の兵庫への入り口であり、湊口惣門なる番所が置かれていました。
警察の体制もまだまだ不十分な時代ですから、当時は子供が迷子になったら、番所に置かれたのが「迷い子のしるべ」という石碑です。

迷子が出た家は、ここに来て「たづぬる方」の上のくぼみに、子供の年齢や特徴、住所、氏名を紙に書いて貼り付けます。
一方、迷子を見つけた人は、ここに来て「しらする方」の上のくぼみに、子供の特徴や自分の住所、氏名等を貼り付けます。
非常にアナログ的ではありますが、双方が定期的にここに来ることで、大方の迷子は無事に解決したそうです。
これも、1945年の神戸大空襲により破損しましたが、日本で現存するものは数少なく、当時の風習を伝える貴重なものとして、1971年に修復の上、神社境内に移設するとともに、同様のものを新たに左側に建立しています。
神馬
青空に向かって今にも駆けだしそうな神馬は、鎮座300年を記念して奉納されたものです。
境内その他
拝殿脇に「力石」が置かれていましたが、特に由緒書き等は無かったので、詳細不明です。
コチラも空襲で破損したのか、以前設置されていたと思われる社碑がありました。
「湊八幡神社」でなく「厄除八幡神社」とあるので、かなり古いものと思われます。
手水舎は休止中でした。
御朱印
境内にある授与所は閉まっていたので、コチラのインターホンを押すと、奥様が出ていらっしゃり、「神職が不在ですので、書置きになりますがよろしいですか?」とのことで、
書置きの御朱印を頂戴しました。
直筆御朱印をご希望される方は、事前にお電話された上での御参拝をお薦めします。