ブログの掲載順は逆になりましたが、七宮神社周辺の神社を参拝し、次に目指したのは湊川神社でした。
湊川神社は楠木正成公を祀ることから楠公(なんこう)さんの名で親しまれています。
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湊川神社へ
七宮神社から八宮神社に向かう途中、八宮神社から見れば直線距離で南に300mほどのところに鎮座されています。
阪急電鉄高速神戸線の高速神戸駅から地上に出たところなので、交通の便も最高。
私は、車だったので駐車場の入り口を探したのですが、ご祈祷用のお車入口しか見つけられず、やむを得ず地下の有料駐車場に駐車して地上に。
左側の駐車場出口から出たところが、湊川神社の西側入り口だったので、そのままそこからお邪魔しました。
第一印象は「デカッ!」の一言です。
境内の面積は、7232坪あるそうなので、我が家なら100戸くらい入りますね。
表神宮
何はともあれ、まずは表神門を観るべく、中央幹線の方に向けて南下しました。
この荘厳な表大門は、1942年に建設された比較的新しいものです。
ココに掲げられている「湊川神社」の扁額は、高松宮宜仁親王御染筆によるものです。
楠木正成公
楠木正成公は、1294年、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村に生まれました。
世は鎌倉時代の末期、北条氏が実権を握る政治は徐々に乱れ、人々の不満がくすぶる乱世へと変貌し、それを嘆いた後醍醐天皇は1331年、智・仁・勇の三徳を備え聖人と称えられるまでに成長し、河内の豪族であった楠公を避難先であった笠置山に召し出されます。
楠公は、力の限り国のために尽くすことを誓い、急拵えで赤坂城を築き統幕のために挙兵し、奇策智謀をもって奮戦しますが、苦戦は免れず、自ら城に火を放ち、戦死したものとして密かに落ち延びます。
この際、後醍醐天皇は隠岐に、親王も各地に配流され、側近の公家たちは処刑されました。
態勢を立て直した楠公は、わずか1000騎ほどの軍勢をもって千早城にて再度挙兵、権謀の限りを尽くした籠城作戦により、数万騎の幕府軍を翻弄し、その奮闘ぶりが勇気を与え、各地の武将たちが打倒鎌倉幕府に蜂起し、幕府軍は敗走、滅亡へと導かれました。
そして、楠公は、隠岐から脱出した後醍醐天皇を兵庫の津で迎え、京まで先導する役割を果たしました。
しかし、晴れて朝廷による政権を奪回した後醍醐天皇に対し、足利尊氏が自らが将軍となって再び武家政権を行うべく反旗を翻します。
大軍となった足利軍に対抗すべく楠公は献策を乗じますが、公卿たちの反対により受け入れられず、わずか700騎余りの軍勢を率いて、足利軍を迎え撃つべく兵庫に出陣します。
決戦の地となった湊川で、足利尊氏・直義兄弟は、海陸両面から大軍を率いて攻め上り、朝から夕刻まで奮戦した楠公でしたが、軍勢は73騎まで減り、もはやこれまでと覚悟された軍勢は、現在の湊川神社まで落ち延び、73人の一族郎党は2列に並び念仏十編を唱えて一斉に腹を斬り、楠公は弟である正季卿と互いに刺し違えて、その生涯を閉じました。
楠公は、刀を振るえば電撃戦を得意とする猛将であり、築城・籠城の技術を発展させ、ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦の導入した革新的な軍事思想家にして、畿内にいながら日本全体の戦乱を俯瞰した不世出の戦略家として称えられることとなります。
史跡:楠木正成戦没地
表大門を入ってすぐ右側に進むと、楠木正成公他一族郎党の殉節地があり、国指定文化財史跡となっています。
この地は、地元住民たちによってひっそりと祀られていたところ、豊臣秀吉の太閤検地によって明らかとなり、後に尼崎藩主であった青山幸利公により五輪の供養塔が建立されました。(墓碑設立にあたって埋められたため現存しません。)
史跡 楠木正成墓碑
戦没地の左側には、楠公の墓碑が建立されています。
1692年に建立されたこの墓碑は、「亀跌碑」と言われる独特な形状で、碑石は正成公の故郷大阪の青和泉石、亀跌は後醍醐天皇にお仕えした京都の白川石、台座は終焉の地である神戸の御影石と楠公縁の地の石で作られています。
ところで、この墓碑を建立されたのは、意外にも徳川光圀公。
つまり、水戸黄門様です。
「大日本史」を編纂される中で、楠公にいたく敬慕の念を抱いた光圀公が、助さんこと佐々介三郎宗淳に命じ、廣嚴寺の僧侶であった千巖の協力を仰ぎ、建立されたものです。
光圀公は、幕府の権威が最も強く、朝廷に対して不敬に念が多かった時代にあって「我が主君は天使なり。今将軍は宗室なり。」と公言して憚らず、皇室に対して敬虔・尊崇の念を隠さなかったと言われます。
烏等に汚されることが無い様に、1695年にはお堂で囲まれてしまったために写真では見えませんが、「嗚呼忠臣楠子之墓」という文字は光圀公ご自身の筆によるものです。
というわけで、近くには1955年に水戸光圀公像も建立されています。
参拝者
光圀公による墓碑建立以来、1日1000人を超える人々が参拝に訪れたと言われていますが、それと同時に、水戸学者を中心に楠公は理想の勤皇家として崇敬を集める様になり、幕末には維新の志士たちにもその思いは広がっていきました。
更に、写真に掲げた吉田松陰の他、横井小楠、新島襄等が、塾等によりその考えを元に後進の育成にあたり、理想の勤皇家たる楠公の考えを伝え、その考えはより浸透ていくこととなります。
ところで、この写真で、光圀公がご自身で書かれたとされる文字が確認できましたね。
創建
江戸時代の楠公人気の高まりを受け、明治維新前後には楠公を祀る神社の創建を願う国民の要望が大きくなり、それが勤皇派の諸藩による建白競争を引き起こします。
まず、1864年に薩摩藩主:島津久光が湊川に楠社を創建することを朝廷に請願したことを皮切りに、1867年には尾張藩主:徳川慶勝が計三度に渡り、京都神楽岡での創建を請願。
1868年には、当時神戸裁判所の役人であった伊藤博文を始めとする有志6名が連名で、東久世通禧を通じ、楠社の創建を請願しました。
最終的に、明治元年となった1868年、明治天皇により地元からの請願が受理され、明治天皇は楠公を「千載之一人臣子之亀鏡」と称え、神社創建の御沙汰を下されました。
この決定を受けて、水戸藩主:徳川慶篤がその創建を水戸藩で行いたいと朝廷に請願しましたが、これは却下され、広く国民の力を合わせて造営されることが決定しました。
その後、1872年に創建されています。
特徴
湊川神社の大きな特徴は二つあります。
一つは、前述の決定により明治政府自身が創建者となったことであり、もう一つは神格化されていない、かつ、魂・祟りを鎮める目的以外で、生前に優れた業績を残した人を祀る神社であるということです。
拝殿と御祭神
大鳥居を潜り、拝殿に向かいます。
ちょっとベージュがかった白色の拝殿が、青空と緑の木々に映えて美しい様子です。
拝殿前に、茅の輪が設置されているのは珍しいですね。
せっかくなので、正しい参拝方式で参拝させていただきました。
拝殿内の様子です。
奥の本殿の中央には主祭神である楠木正成公、右側に楠公夫人、左側に楠公の御子である正行公と楠公とともにこの地で殉節された弟である正季卿、以下御一族十六柱と菊池武吉卿が祀られています。
ところで、写真ではチラッとしか見えませんが、本殿まで入ると全国の著名画家から奉納された164点もの天井画が絢爛豪華に彩っているそうです。
拝殿の扁額です。
尚、御利益は、開運招福・厄除け・家内安全・夫婦良縁・情報業、流通業繫栄・学業成就・商売繁盛とされていますが、情報業とか流通業って珍しいですね。
そういえば拝殿前には、「楠公さんを大河ドラマに!」なんて署名チラシが置かれていましたが、昔、真田広之さんが主演した「太平記」で武田鉄矢さんが楠公さんを演じてたなぁと回想してしまいました。
境内末社
1872年に建立された楠本稲荷神社。
なぜか、ココは楠木ではなく楠本です。
御祭神は、倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命。
御利益は、五穀豊穣・商売繁盛です。
1876年に創建された天満神社。
御祭神は、菅原道真公。
御利益は、学業成就・合格・文芸上達です。
神能殿
実は、能楽の祖である観阿弥は楠公の甥っ子に当たります。(妹の子)
その血縁関係から、境内に能楽堂が設置されています。
元々は東京にあった観世宗家の舞台を移築した由緒正しき舞台が設置されており、現在では関西屈指の輪の殿堂として、能楽愛好者の他にも日本舞踊や落語等の古典芸能、室内楽等の幅広い文化芸術分野で活用されています。
宝物殿
表大門から境内に入って、すぐ左側にある宝物殿です。
1963年、楠公を崇敬する塩田富造氏のお気持ちにより竣工されました。
現在は、コロナ禍のためか臨時休館中とのことで、見学はできませんでしたが、国の重要文化財に指定されている楠公着用の段威腹巻や楠公著書の紙本墨書法華経奥書の他、楠公縁の刀剣や書画、資料等がてんじされているそうです。
尚志館
文武兼備、智徳円満の文化人としても名高い楠公の精神を滋養する施設として1953年に設立され、茶華道を始めとする芸道の修養に努める場として活用されています。
納涼茶会や月釜等のお茶席が定期的に開催されています。
楠公会館
西側の入り口から入ってすぐにある楠公会館は、ブライダルや会食・会議に利用できる施設です。
神前結婚式や七五三詣りの方のためのフォトスタジオもあります。
日本最古のオリーブ樹
明治時代の富国強兵・殖産興業政策に注力し、有用植物栽培の研究に積極的に取組み、外国産の植物を国内で栽培することで輸出の拡大を図っていました。
そんな中で、1873年にウィーン万博の事務副総裁を務めた佐野常民氏がオリーブ樹を初めて日本に持ち帰り、神戸植物試験場に植え付けました。
また、1878年にはパリ万博の事務長を務めた前田正名氏がオリーブ樹を持ち帰り、内務省三田育種場神戸支園に植え付けました。
しかし、両植物園ともに明治末期に閉園となり、その際に湊川神社境内に移植されたものです。(どちらの植物園のものかは、不明のままです。)
狛犬
森良明氏作の備前焼狛犬です。
備前焼の狛犬自体、地震や戦争で破損し、全国的に少なくなっている中で、ここまで大型で、なおかつ空襲や阪神淡路大震災でも無傷だったという奇跡の狛犬です。
コチラは、山崎朝雲氏作の青銅製狛犬です。
ちょっとモンスターっぽいですね。
後、本殿の扉脇に平櫛田中氏作の、金色の獅子狛犬があるそうですが、拝殿内には入っておりませんので写真は撮れませんでした。
しかし、拝殿内の写真をアップで見ると確認できます。
天満神社の前には、菅原道真公のお使いである銅製の牛がいました。
手水舎
柄杓は撤去されていますが、手水舎です。
休止されていますが、コチラも手水舎でしょうか?
その他境内
御祈祷所です。
遙拝所です。
御朱印
コチラの社務所にて、
神戸七福神巡りの一つである毘沙門天も一緒に直筆御朱印を頂戴しました。
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