満願寺へ
前日は結局、28,000歩ほど歩いて、まだ足腰が張って痛いので、この日は車を利用してのお詣りとなりました。
まぁ、行けそうなら中山寺奥の院の山道ハイキングにチャレンジする気も持ちつつ、一社目は以前、何気にスルーしたままになっていた川西市の満願寺です。
家から車で40分足らずくらいで、大きな無料駐車場に到着しました。(·∀·)b
山門(仁王門)
まずは、石段を上って山門に。
ちなみに、この石段は33段あり、女性の厄年である33歳に因み、「女人厄除」の意味合いを持つものです。
一風変わった独特の形をした仁王門は、1881年に再建されたものです。
一見中国風にも見えますが、明治初期に洋風を取入れた建築様式とされています。
仁王門の阿形さんです。
同じく吽形さんです。
ところで、この金剛力士像の由来はどこかで書いた様な…と記憶を辿ってみると、元々は近隣の多田神社に安置してあったものを、明治の神仏分離令により移転したものですね。
多田神社については、コチラのページをご参照ください。
多田神社 清和源氏発祥の地として歴代将軍の崇敬を集めてきた神社|関西御朱印 ブログ (kimikan.com)
1871年に移転しているので、言い換えれば、独特の山門は、金剛力士像を安置するための仁王門の形式とするために再建されたのかも知れません。
尚、この金剛力士像は600年余り前の作品とされ、兵庫県指定有形文化財です。
山号は「神秀山」ですが、コレは須佐之男命が高天原から出雲国に追放された際に最初に地上に降り立ったとされる山の名前に由来するものと思われます。
創建
寺伝によると、奈良時代に聖武天皇の勅願により、勝道上人が日本全国に「満願寺」を創設することとなり、その内の摂津国満願寺として創建されたのがこの寺院となります。
平安時代中期には、近隣に多田院(現在の多田神社)を創建した源満仲が帰依したことにより、以来源氏一門の祈願所として栄え、鎌倉時代の1325年には後醍醐天皇により勅願寺となり、室町時代に入っても源氏一門である足利将軍家の祈願所となり、最盛期には四十九もの子院が存在していましたが、戦国時代になると戦火により衰微していきます。
江戸時代に入ってもまだ二十近くの子院がありましたが、次第に衰微し、明治時代には現在は本坊となっている円覚院を残すのみとなりました。
参道
前日の雨で落ちた紅葉が赤い絨毯の様に広がる山門から見た参道です。
ところどころ、まだ落ちずに紅葉が残っています。
本坊
明治時代に入っても唯一残った子院の円覚院は源満仲の妻の創建で、参道脇にありました。
せんじゅ桜
この庭園にあるのは、樹齢約70年の「低木桜」だそうで、満願寺の御本尊である千手観音菩薩の力強い救いの手が四方に数多く伸びている姿と、ココの桜が枝を力一杯周囲に伸ばしている姿を準えて、「せんじゅ桜」と名付けられたそうです。
ところで、満願寺さんでは13本ある桜、一本一本にそれぞれ名前をつけていらっしゃるそうで、「偶然にも満願寺は新西国観音霊場の第十三番札所です」と但し書きがありました。
しかし、偶然ならこじつけすぎで、もしかして必然なのでは?と勘ぐる…。(·∀·)
ちなみに、庭園には喫茶店もあり、地元である川西市・宝塚市の野菜をたっぷり使った定食「お寺ごはん」がおススメだそうです。
実は、満願寺自体は川西市にあるのですが、川西市の飛地で、周囲は宝塚市なのです。
金堂(本堂)
参道の突き当りの石段を上ると、金堂(本堂)です。
1663年に再建された金堂は、元々は子院である円覚院の常行堂でした。
御本尊は、勝道上人の一刀三礼(一度刻んでは三回礼拝する)の作と伝わる開眼阿弥陀如来(めあきのあみだにょらい)。
他に、平安時代の作と伝わる十一面観音(兵庫県指定有形文化財)、薬師如来、聖観音菩薩(兵庫県指定有形文化財)が安置されており、内殿の宮殿も室町時代後期に造営されたものとして兵庫県指定有形文化財になっています。
満願寺 情報 by 関西御朱印 ブログ
兵庫県川西市満願寺町7-1
TEL:072-759-2452
無休
入山料 100円(里山)
拝観料 300円(金堂・毘沙門堂)
拝観時間 24時間可能(※堂内拝観 9:00~16:30)
納経所受付時間 9:00~16:30
初穂料 300円
公式ホームページ 願いの叶う満願寺 (manganji.jp)
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