この6月29日の神戸訪問時は、社務所ご不在でブログに記載していない荒田八幡神社を含めて五宮神社~八宮神社まで10社参拝してきたのですが、実は一番最初に参拝したのが、今回の熊野神社になります。
前回の神戸訪問時の一番最後、四宮神社の後に参拝したのですが、残念ながら社務所ご不在で御朱印を頂戴できなかったため、五宮神社参拝前に御朱印を頂戴に、再度参拝しようと一番最初に熊野神社に向かった次第です。
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熊野神社へ
今回は、車だったので国道43号線をひた走り、1時間足らずで神戸の街へ。
そして、北上して、
無事に熊野神社に到着しました。
階段右手の坂道を上ると熊野神社駐車場という看板の案内に従い、坂道を上ると、ちょうど北隣に神戸市立山の手小学校がありました。
しかし、肝心の熊野神社駐車場って、実は月極駐車場のことでして…。
やむなく宮司さんのお宅と思しきお家の隣に駐車させていただいた次第です。
他の車の邪魔にもならないし、特に何も言われなかったので正解だったのかな?
創建
この辺りの山は、昔は宇治野山と呼ばれており、創建年代は不詳ながら宇治物部氏により創建されたものと言われています。
物部氏というのは、大和国や河内国を本拠地とした有力豪族で、神武天皇の時代(紀元前660年)から朝廷にお仕えし、鉄器や兵器の製造・管理を任されながら次第に力を増していきました。
雄略天皇の時代(西暦457年)には、胆のうの補佐役たる大連を輩出するまでに有力氏族となり、各地に国造(地方を納める官職)を置く他、刑罰・警察・軍事・呪術・氏姓等の職務を任され、裁判官的な役職も担ったとされています。
しかし、私の様な日本史音痴には、物部氏=物部守屋で蘇我氏=蘇我馬子との対立のイメージが一番です。
欽明天皇の時代(539年)、百済から贈られた仏像を巡り、大連であった物部尾興と大臣であった蘇我稲目は、それぞれ排仏派、崇仏派に分かれて対立します。
この二人の死後に代替わりしたのが、物部守屋と蘇我馬子です。
敏達天皇の時代(572年)になると、大臣であった蘇我馬子は敏達天皇に奏上し、仏法を信奉する許可を求め、敏達天皇自身は排仏派ではありましたが、これを許可します。
しかし、この頃から疫病が蔓延し、大連であった物部守屋はこれを異国の神を信奉したが故の災いとして、敏達天皇に仏法信奉の禁止を求め奏上し、天皇は仏法を止める様、詔しました。
これを受けた物部守屋は、寺の仏塔を破壊し、仏殿を焼き払い、仏像を海に捨て、蘇我馬子や司馬達等らの仏法信者を面罵した上で、司馬達等の娘である善信尼とその弟子3人を捕らえ、群衆の面前で全裸にした上で鞭を打つ行為まで行いました。
しかし、依然として疫病の蔓延は続き、敏達天皇は崩御し、用明天皇が即位します。
用明天皇は、崇仏派ではありましたが、疫病の流行の続く中、587年にわずか2年で崩御。
物部守屋は次期天皇として穴穂部皇子を推しましたが、炊屋姫(用明天皇の妹であり敏達天皇の后にして後の推古天皇)の詔を得た蘇我馬子が、穴穂部皇子を誅殺。
続いて、炊屋姫は、物部守屋の追討を命じ、その本拠地である河内国で討ち取ります。
こうして、蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、物部氏は没落しました。
拝殿と主祭神
随分と話が脱線してしまいましたが、
二の鳥居を潜った先にある
拝殿の様子です。
祀られている主祭神は、伊邪那岐命と伊邪那美命の御夫婦で、日本を生み出したとされる二神です。
物部氏との関係は明らかではないので、平安時代以降に熊野を勧請したものと思われます。
狛犬(阿形さん)です。
再建
平安時代末期の福原遷都にあたり、遷都造営を命じられた五条大納言藤原邦綱により、再建されたと伝わっています。
藤原邦綱は、この付近に宇治新亭と呼ばれる邸宅を建て、福原遷都により福原に滞在していた安徳天皇が、京都に戻る前に宇治新亭に滞在したとされています。
境内末社
境内には、末社として熊高稲荷社が祀られています。
御朱印
社務所は閉まっていましたが、この日はインターホンを押すと奥様がご対応くださり、
直筆の御朱印を頂戴しました。
初穂料をお尋ねしたところ、「神職不在なんで200円で結構です」とおっしゃってくださいました。