鵲森宮を出ると、そのまま玉造筋を南下しつつ、南西の方角を目指します。
目指すは、玉造稲荷神社です。
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玉造稲荷神社へ
ブラブラ歩いて10分ほどで玉造稲荷神社の東側入口に到着しました。
玉造稲荷神社は2度目の訪問で、前回は正面鳥居から参拝したので、今回は気にせず、このまま階段を上って境内に入ってました。
階段を上り切ったところの境内入口です。
しかし、前回参拝時は拝殿をお詣りしただけだったので気がつかなかったのですが、境内は広く、写真を確認すると28枚という、面倒くさがり屋の私にとっては前代未聞の多さ。
普通は、10枚あるか無いかくらいなので、順番は前後しますが、整理しながら書いていきます。
創建と再建の歴史
実際には1番最後にお詣りした拝殿の様子です。
後方の高層マンションと相まって、美しい朱色の拝殿。
垂仁天皇により、何と紀元前12年に創建されたとのことで、聖徳太子が物部守屋との戦いに際し、この地に陣を置き、戦勝を祈願されたとされています。
その際に、「我に勝利を与えるならこの栗の木の白木の箸に枝葉を生じさせ給へ」と祈願され、後に枝葉が生じ、勝利した聖徳太子はこの地に観音堂を建立されたと伝えられます。
その後、戦国時代の1576年兵火により焼失、1603年豊臣秀頼公により再建、大坂の陣での戦地となり多大な被害を受けるも、1619年大阪城代内藤紀伊守により再建、1863年大阪大火により焼失、1871年氏子・崇敬者により再建、1945年の大阪大空襲で焼失、1954年に再建・遷座され、現在に至ります。
凄まじいばかりの焼失と再建の歴史に驚かされました。
御祭神
主祭神は、宇迦之御魂大神。
素戔嗚尊と神大市比売との間に生まれたお子様で、衣食住を司る神として信仰され、稲の精霊・穀物の神として一般的には稲荷大神として信仰されています。
下照姫命。
大国主神と田心姫命の間に生まれたお子様で、国や家庭、事業の安泰を司る神として信仰されています。
稚日女命。
天照大御神の妹神であり、身体の創生や精神の安定を司る神として信仰されています。
月読命。
同じく、天照大御神の妹神であり、月の世界の統治を命ぜられた月の神、暦を司る神として信仰されています。
軻遇突智命。
伊邪那岐神と伊邪那美神の間に生まれた火を司る神ですが、この神の誕生により伊邪那美神が焼死してしまったことから、嘆き悲しんだ伊邪那岐神は十拳剣により、軻遇突智命の首を切り落としてしまいました。
しかし、その件についた血や体内から多くの神々が生まれ出たとされています。
金銀財宝の守護、金運、招福、鎮火、防火の神として、また縁結びや夫婦和合にも御利益のある神として信仰されています。
境内末社
市杵島命をお祀りする厳島神社です。
四宮神社の項で記載した弁財天と同一とされる神ですね。
詳細は、コチラをご参照ください。
四宮神社 神戸八社巡り四柱目は、挿絵入り御朱印のかわいさで女性人気抜群 – 関西御朱印 ブログ (kimikan.com)
そのすぐそばにある雨乞いに霊験ありと伝えられる白龍池。
ところで、先述の聖徳太子建立の観音堂もこの辺りにあったそうです。
ともに宇迦之御魂神を御祭神とする万慶稲荷神社と新山稲荷神社です。
豊臣秀頼公を祀る胞衣塚大明神。
秀頼公,と母君である淀殿を結ぶ卵膜・胎盤等が鎮まるっているそうです。
ところで、「縁のひも」は、豊臣秀頼公に仕えた武将:真田幸村縁の「真田紐」で作られており、願いを記し、「縁のひも掛け」に結び祈願するのが習わしです。
また、子どもの悩みや夜泣きにも霊験あらたかな神社とされています。
コチラは一昨年に新型コロナウイルスの終息を願い祀られたという江戸時代から、玉造稲荷神社に縁の深い梅薬師・道祖神です。
豊臣秀頼公
大阪城の鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けていた玉造稲荷神社ですが、1603年にこの神社の再建に尽力された他、最終的に豊臣家の滅亡につながる大坂夏の陣の戦地となったこの神社に縁の深い豊臣秀頼公は、
銅像としても祀られています。
また、阪神淡路大震災により基礎部分が崩壊した秀頼公奉納の石鳥居も、
上部・下部に分けられて、境内に現存しています。
石碑
元々、上町台地の東側は海水の侵入する港湾地帯であり、生駒金剛連山を見渡すことのできる景勝地であり、平安時代には大和川も流れていた玉造を小野小町が訪れた際に詠んだ歌で「新勅撰集」に収められています。
豊臣時代、千利休は玉造に屋敷を構えていたと言われ、豊臣家が野天の利休による茶会を楽しむこともしばしばあったそうです。
利休縁の地であるこの地に置かれた石碑の利休の茶の心「和敬静寂」の文字は、利休十五世にあたる千宗室宗匠の筆により彫られています。
聖徳太子が戦勝祈願した地であり、後に観音堂を建立した縁で、「聖徳太子の偲び石」が、この説明書きの隣にありました。(石を撮れよ!)
難波・玉造資料館
私が入ってきた入口のそばにあった難波・玉造資料館。
たまたま入口が開いていたので中を覗くと、倉庫の様になっていました。
そのときは「休館中なんやな」で終わったんですが、公式ホームページを見ると、予約すれば観覧可能だそうです。
しかし、「予約は1週間前までにお願いします」の但し書き付き…って片付ける気満々?
という玉造稲荷神社第1のナゾでした。
御朱印
直筆御朱印を頂戴しましたが、御朱印には「玉作岡」と書かれるんですね。
コレは、古代この一帯が匂玉等を作る玉作部の居住地であったからだそうです。
忘れずに、阿形さんを撮影し、
正面鳥居からお暇しました。
しかし、階段を下りて再度撮影すると、何やら細工された跡が…。
徳川時代には「豊津稲荷社」の名称で呼ばれていたからか、元来の「玉作」の名称を用いていたのか、第2のナゾを抱えて神社を後にしました。