粉河寺へ
関西御朱印ブログ未開の地、和歌山。
とりあえず一社は行っておかないとと常々思っておりましたが、西国三十三所霊場巡りを始めて、和歌山も那智勝浦町の青岸渡寺、紀三井寺の金剛宝寺、粉河町の粉河寺の三社ある中から、一番近そうな粉河寺を選択。
しかし、予算の都合で、一人旅ではETCが使いづらいため、早朝に出発して約3時間足らずの道のりをドライブしました。
早朝と言っても、6時に出ようと思ったら7時になっちゃったんですけど。(·∀·)
大きな渋滞に巻き込まれることなく、無事に和歌山県までやってまいりました。(`・ω・´)ゞ
大門(仁王門)
車で来ると、写真右手の道路から大門の脇を通り、駐車場に入ります。
駐車料金(500円也)をお土産屋さんで支払い、改めて、1707年に再建されたという大門を見ると大変荘厳で、その規模は和歌山県では高野山の根来寺に次ぐものとされ、国指定重要文化財になっています。
金剛力士像の阿形さん。
同じく吽形さんは、鎌倉時代の仏師である運慶・湛慶等を総称した春日仏師(奈良仏師)の作と言われています。
大門に掲げられた扁額は「粉河寺」。
ところで、山号の「風猛山」は「ふうもんさん」とも「かざらぎさん」とも読むそうです。
善光寺堂
まだ、大門の手前にもいくつかの堂等があり、コレは善光寺如来を祀る善光寺堂で、その他にも、
地蔵堂
アシンメトリーが素敵な地蔵堂、
粉河蛭子神社
主祭神として、事代主神を祀る粉河蛭子神社がありました。
ところで、この時は気づかなかったのですが、車で帰る際に、更に少し南側に粉河蛭子神社と対面する様に、天照皇大神を主祭神とする大神社を見かけましたが、コレは粉河寺とは無関係の様です。
創建
粉河寺所蔵の「粉河寺縁起絵巻」(国宝)によると、奈良時代の末の770年、当時の紀伊国那賀郡に住む漁師であった大伴孔子古が毎夜、幽谷の樹幹に足場を定めて、猪や鹿の漁をしていたところ、ある夜、光明輝く地を発見し、その場に柴造りの庵を建てたのが始まりとされています。
やがて、その地を童行者が訪れ、一夜を泊めてもらい、そのお礼にと孔子古の願いであった庵に安置すべき仏像を七日七夜庵に籠り、等身の千手観音像を刻み立ち去ったといいます。
しかし、よく考えたら八泊しとるがな…。(·∀·)
その後、時は流れて、河内国の長者佐太夫の一人娘が長患いしていた際に、童行者が訪ねてきて、千手陀羅尼を踊して祈祷したところ、無事に娘の病が回復したので、長者が御礼に七珍万宝を差し出したものの、童行者はそれを断り、娘が捧げ出たさげさや(箸箱)と袴のみを貰い「紀伊国那賀郡粉河の者だ」とだけ告げて立ち去りました。
翌春、長者一家は粉河を訪れたものの、童行者を探しあぐねて、小川の畔で一休みしていたところ、流れる水が米の研ぎ汁の様に白いことに気づき、コレが粉河の証であると確信し、その川を上流に遡ったところ、庵を発見しました。
扉を開けてみると、千手観音が安置され、その手には娘が捧げ出たさげさやと袴があったので、童行者が千手観音の化身であったと気づいたとされます。
創建については、史実というより伝説的なものですが、その後の平安時代・鎌倉時代を通じて深く信仰を集めた粉河寺は大いに栄え、最盛期には天台宗寺院として550ヶ坊もの子院を持ち、大勢の僧兵を擁し、寺領4万石の広大な荘園を所持する大寺院となります。
戦国時代の1573年には境内南側の猿岡山(現在の秋葉山)に猿岡山城を築き、防衛に努めますが、1585年に豊臣秀吉による紀州征伐により、猿岡山城は陥落、偉容を誇った堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失しました。
その後、紀州徳川家の庇護の下、江戸時代中期から後期にかけ、復興の歩みを進めますが、1713年に大火災により、大門のみを残して、建物の大半を焼失しており、現在の建物はそれ以降に再建されたものとなります。
粉河寺 情報 by 関西御朱印 ブログ
和歌山県紀の川市粉河2787
TEL:0736-73-4830
無休
拝観料 無料(本堂内陣拝観料 400円)
拝観時間 8:00~17:00
納経所受付時間 8:00~17:00
初穂料 300円
公式ホームページ 粉河寺|西国第三番札所|厄除観音|和歌山紀の川市 (kokawadera.org)
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