巡っているつもりは無いと言いながら、「真田幸村めぐルート」に乗っかって進んでおります。
「真田幸村めぐルート」に関しては、コチラのページをご参照ください。
三光神社 真田丸の一角に鎮座する大阪七福神巡りのスタート地点 – 関西御朱印 ブログ (kimikan.com)
しかし、まあ今回は一眼寺の北隣に隣接しているのということもありますが。
Contents
興徳寺へ
どんどろ大師 善福寺のご住職に「確実に御朱印が頂戴できますよ」とお薦めいただいた、興徳寺にお詣りさせていただきました。
心眼寺同様、大阪明星学園のグラウンドを背に山門を撮影させていただきました。
真田丸顕彰碑
しかし、その背後には、
真田丸顕彰碑が建立されています。
一帯が真田丸だったんだから、跡地を名乗り、真田幸村の墓所もある心眼寺の前で良かったんじゃないかと思うんですが、あえて興徳寺の前に建てちゃったのね。
四国八十八ヶ所お砂踏み石
山門を潜ると、初心者の御朱印収集者にはいきなり高いハードルが訪れました。
踏むべきか踏まざるべきか…?
ココは「君子危うきに近寄らず」の思いで踏まずにスルーしたんですが、残念不正解!
昔は交通機関も発達していなくて四国八十八ヶ所を巡るのは至難の業でした。
そこで、このふみ石の下に四国八十八ヶ所各霊場の砂が収められており、まず利き足を一歩踏み出して、次いで残りの足を添えて踏むのが正解だそうです。
そして、弘法大師の名号「南無大師遍上金剛」と唱えることで、四国八十八ヶ所を巡ったのと同様の功徳を得ることができるとされています。
歴史
興徳寺も大阪大空襲により、山門を残して全焼しており、詳細は不明ながら、元々は、聖徳太子が存命中に現在の大阪市中央区法円坂付近に建立された「薬師院」が始まりとされています。
729~749年の天平年間に、行基菩薩により再建された行基四十九院の一つに数えられていますが、再建自体がこの地であったかは不明。
しかし、1688~1704年の元禄年間に作成された「大坂三郷町絵図」において、この地に興徳寺を確認することができます。
御本尊
行基菩薩によって発掘されたと言われる「薬師瑠璃光如来」が御本尊として祀られています。
しかし、秘仏のため直接お祀りするのではなく、御前立と言われる秘仏に代わり厨子の前に安置される仏像をお祀りする形となっています。
准堤観音
境外からも一目瞭然のお姿。
無数の仏様をお産みになり、仏母と称される観音様です。
特に、子授けと安産の御利益があるとされています。
近寄ってみると、高さは約10m。
三つの目と十八本の手をお持ちです。
それぞれの手には、様々な仏具をお持ちで、お詣りされた方々に功徳をもたらすそうです。
ところで、准堤観音の周囲には西国三十三ヶ所霊場の砂が埋められており、周囲を歩くことで西国観音霊場を周ったと同様の功徳を得られるそうです。
ちなみに足のサイズです。
融通地蔵尊

我々は、「融通利かせて」とか「お金融通して」とかいう遣い方をする「融通」ですが、仏語では「異なる別々のものが溶け合って一体となる」という意味を持ちます。
それぞれが孤立するのではなく、お互いが関係性を保ち、通じ合うことで両方が完全なものになるという教えです。
従って、「融通地蔵尊」とは、自分だけでなく全ての人々が悠久の平和の下でやすらかに暮らせます様にという祈りを捧げるお地蔵様です。
三宝荒神
弘法大師が高野山を開山するにあたり、板に「三宝荒神」を描き、古荒神に祀るとともに、檀上の鬼門にも荒神を勧請し、高野山の大伽藍を建立したとされています。
興徳寺の境内には、その荒神社立里荒神分社が祀られ、火の神・台所の神として、家内安全、商売繁盛を願う人々の信仰を得ています。
六地蔵尊
京都に「六地蔵」という地名もありますが、六地蔵尊の由来は仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わる)に基づき、六道について6種の地蔵尊が救うという考えから生まれたものだそうです。
その他の境内
どこからもらってきたの?
そもそも動くの?
かわいい。
これまたかわいい。
いや、境内でサッカーは無理でしょ。
たくさんの鯉が泳いでいました。
脱出不可能な亀さん。
水音を醸し出す滝。
残念ながらこの日はご不在でしたが、ご住職さんのお寺は老若男女問わず、思い思いの時間を過ごせる場所でありたいというお気持ちが伝わる境内でした。
御朱印
コチラの社務所にて
ご住職ご不在ということで、奥様に直筆御朱印を頂戴しました。