順番は逆になりましたが、この日最初に訪れた西宮神社。
西宮生まれの私にとっては、十日戎に行った記憶が強く「えべっさん」のイメージですが、どっちかというと居並ぶ出店・夜店の賑わいの記憶ばかりで西宮神社そのものの記憶は殆ど残っていないのですが。
ちなみに、ニュースでよく見かける一月十日早暁の大祭終了後の開門神事・走り参りは福男選びとして、有名です。(もしかして関西限定?)
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西宮神社へ
自宅から向かうには、車でまず国道43号線まで南下して、右に曲がって西方に一直線。
計30分も走らない内に右手に西宮神社が見えてきます。
まず手前を右折して迂回する感じで北側から入り、境内を走って駐車場へと向かいました。
西宮神社の境内面積は12700㎡余り、「デカッ!」と思った湊川神社の更に1.5倍以上の広大な神社です。
湊川神社についてはコチラのページをご参照ください。
湊川神社 明治政府創建!将来の大河ドラマの主人公?を祀る巨大神社 – 関西御朱印 ブログ (kimikan.com)
まずは、境内図を確認して見どころを見落とすことの無い様に…。
表大門
まずは、表大門から改めて参拝。
通称「赤門」と呼ばれる表大門は、神社の西側にあり、1604年、豊臣秀頼により再建されたと伝えられていますが、桃山時代の建築方式を採用した荘厳な姿で、左右に連なる大練塀とともに、国指定の重要有形文化財に指定されています。
創建
創建年代は不詳ですが、甲子園素盞嗚神社で紹介した鳴尾の漁師が網にかかったえびす様の像を、御神託により西方の現在の西宮神社の地に遷座されたのが始まりとされています。
甲子園素盞嗚神社については、こちらのページをご参照ください。
甲子園素盞嗚神社 野球少年の出発点・帰着点たる阪神タイガースの聖地 – 関西御朱印 ブログ (kimikan.com)
西宮神社は、平安時代には古社である廣田神社の境外摂社として位置づけられており、「浜の南宮」や「南宮社」と呼ばれていました。
現在も、その名残として西宮神社の境内に廣田神社の境外摂社として南宮神社が残っており、御祭神として豊玉姫神・市杵島姫神・大山咋神・葉山姫神が祀られています。
平安時代の後期からは書物に「戎」の字が確認される様になり、「浜の南宮」に鎮座されたえびす様は、当初は漁業の神として信仰を集めましたが、やがて西国街道の宿場町として西宮が開け、市が立つ様になると、「市の神」「商売繁盛の神」として、より一層の信仰を集める様になります。
そして、境内の北隣に住んでいた傀儡師(人形操りの芸能団)が、全国を巡回するに当り、えびす様の人形操りを行い、御神徳を説いたことにより、商売繁盛の神としてえびす様の信仰は全国に広がります。
これにより、西宮神社は全国のえびす宮の総本社としての地位を確立します。
拝殿
自然に囲まれた、
広大な境内を奥に進んでいくと、拝殿にたどり着きます。
西宮神社の象徴とも言える赤色を主体とした拝殿の様子です。
平日の昼下がりですが、結構参拝客の方がいらっしゃいました。
拝殿に掲げられた扁額です。
狛犬(阿形さん)です。
本殿
拝殿から奥に見える本殿の様子です。
本殿は、三殿に分かれており、右から第一殿で蛭子大神を祀り、中央の第二殿には天照大御神と大国主大神、左の第三殿には須佐之男大神が祀られています。
神社によって名前が変わるのでややこしいですが、天照大御神と須佐之大神と蛭子大神は日本書紀では御兄弟とされていますね。
境内摂社
火皇産霊神を祀る火産霊神社は、通称愛宕さんと呼ばれ、火伏せの神として信仰されています。
百太夫神社は、前述の傀儡師たちが全国にえびす様信仰を広めてくれたことに感謝の意を表し、人形遣いたちの祖神と言われる百太夫神を祀ったものです。
ところで、全国にえびす様信仰を広めた傀儡師たちは、江戸時代に淡路島に移り、現在は国の重要無形文化財に指定されている淡路島の人形浄瑠璃や大阪の文楽の祖となったと言われています。
六甲山頂に白山権現が祀られており、その地を社領としていた廣田神社が1789年に「浜の南宮」に勧請した菊理姫命を祀る六甲山神社。
元々、阿弥陀堂という仏堂だったところに、1735年に大己貴命、少彦名命を勧請し、神社にしたものとされる大国主西神社。
1874年、西宮神社、大国主西神社ともに県社と指定されたこともあり、同じ境内に二つの県社が存在する様な状況もありましたが、元々社務を司る祠掌は西宮神社が統括しており、戦後に大国主神社は社格を持たない西宮神社の境内神社となっています。
境内内の池に浮かぶ島に祀られた弁財天のために建立された市杵島姫命神社。
元々は、境外の荒戎町に鎮座されていたものを1872年に境内に遷座した沖恵美酒神を祀る沖恵美酒神神社は、元あった地名もあって「あらえびすさん」の通称で親しまれ、えびす様の荒御魂を祀っていると言われています。
奥津彦神・奥津比女神を祀る庭津火神社。
両柱は、「竈の神」とされ、「荒神」と重なりますが、神社名の庭津火神は、土地の神としての性格が強く、詳細は不明とされています。
赤門の外で酒解神を祀る梅宮神社。
元々は、松の御神木のみだったところに1851年に社殿が建立されたそうです。
神池にある末社で、農業・産業の繁栄を司る宇賀御魂命を祀る宇賀魂神社。
大山咋命・猿田彦命・住吉大神を祀る松尾神社は、1790年に西宮で酒造りを営むみまさんが酒造繁栄祈願のために奉斎したもの。
食物を司る受比女命を祀る神明神社は、1873年に大阪奉行所西宮勤番所から遷座されたもの。
廣田神社の摂社、南宮神社の末社として祀られる兜社。
以上で、境内に祀られる社殿はコンプリート!
御戎之鐘
1609年の豊臣秀頼による社殿再興の翌年にあたる慶長十五年の銘が刻まれていることから、社殿再興に併せて豊臣秀頼公が奉納したものだと考えられています。
昔は鐘楼堂があったそうですが、現在は現役を引退して、社務所の向かいに設置されています。
六英堂
モノの見事に写真を撮っていなかったのですが、奥の木々に囲まれた屋根だけ見えるのが六英堂。
元々、岩倉具視の私邸の一部(離れ)で東京の丸の内にあり、明治新政府の中心人物であった三條実美、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝充、伊藤博文の六人(六英傑)が、度々会合を行っていたことからこの名が付けられたそうです。
1883年には、病に伏せていた岩倉具視を明治天皇自ら見舞ったとも伝えられています。
岩倉具視の死後、宮内省により私邸は買い上げられ取り壊されましたが、明治天皇行幸跡ということで、有志によりこの建物だけは、新宿の国鉄敷地内で保存されました。
その後、川崎造船所の創業者であった川崎家の神戸布引の屋敷を経て、1977年に西宮神社に移築され、現在は結婚披露宴や各種会食・会合の場として一般開放されています。
尚、左手のモダンな建物は西宮神社会館。
コチラも神前挙式や披露宴を行うゲストハウスとして活用されています。
神輿殿
元々、甲子園素盞嗚神社から神輿に載せられて西方に進み、最終的にこの地に鎮座されたと言われるえびす様ですが、途中、現在の札場筋と国道43号線の交差点脇で一休みされた際に居眠りされて、なかなかお目ざめにならず、困った漁師がお尻をつねって起こされた、西宮神社まで進まれたと言われています。
そのお休みになった地は、御輿屋跡地と言われ、現在も6月14日にえびす様を神輿でお遷しし、御輿屋祭りを執り行った上で、西宮神社にお帰りいただく行事が行われています。
瑞寶橋
拝殿前の神池に架かる橋長5.5m、幅員2.5mの石造りのアーチ状の太鼓橋です。
祭事用に使用されるもので、普段は閉鎖されています。
国登録有形文化財に指定されています。
嘉永橋
コチラも国登録有形文化財ですが、通行可能な嘉永橋。
神池の西側中央に架かり、橋長6.0m、幅員1.8mの桁橋で六甲山産の御影石を用いて制作されています。
橋の上から見下ろした神池には、無数の鯉が泳いでいます。
神馬
1899年、白鷹酒造の辰馬悦叟氏奉納の青銅製の神馬です。
青銅製神馬の寄贈碑です。
伊勢神宮遙拝所
遥か遠くの伊勢神宮を拝む遙拝所です。
歌碑・句碑
境内には、歌碑や句碑も多数ありましたがわかるものだけ…。
さすがに松尾芭蕉の句碑はわかります。
元大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督を務めた朝比奈隆氏のお言葉ですね。
みつをかと思ったら違うみたいで、結局2人しかわからずじまいでした…。
茅の輪
偶然、参拝に訪れた6月30日は、夏越大祓当日。
何か広場に線が引かれ、何人か順番待ちの様にお座りになっていたのはそのためだった様ですね。
最終的には、400人余りの氏子崇敬者が参列し、神職が大祓の詞を奏上した上で、各々が人形に息を吹きかけ身を撫でることで罪汚れを移し、お祓いをして無病息災を祈るそうです。
16時からは、神職や氏子参列者が唱え言葉を唱えながら、この茅の輪を潜るそうです。
まだ15時にもなっていなかった上、私は氏子ではありませんので不参加でしたが。
その他境内
茶屋・お休み処があり、
木々の下にも腰掛けがしつらえてあり、各々が自由な時間を過ごせる空間です。
尚、前述の神輿殿の裏手は、「えびすの森」として県指定の天然記念物に指定されています。
普段は立入禁止ですが、十分に自然の空気を味わうことができます。
御朱印
コチラの社務所にて、
直筆の御朱印を頂戴しました。
最後は、せっかくなので
国道43号縁に面した南門からお暇し、そのまま甲子園素盞嗚神社へと向かった次第です。