神戸三宮シリーズも一段落し、(単に4柱目までしか参拝できなかっただけですが)次なる機会を窺っていたいたところ、この日は所用で谷町四丁目に出かけることになりました。
しかし、谷町筋沿いは一通り参拝したということもあって、JR森ノ宮駅近くの鵲森宮に参拝することとしました。
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鵲森宮へ
中央大通りを西に真っすぐ15~20分程度あるくだけなのですが、途中にそういえばと思い、難波宮跡をちょっと見学してみました。
難波宮跡
難波宮は、弥生時代後期から応神天皇の行宮、仁徳天皇の皇居、欽明天皇の皇居等として、飛鳥時代~奈良時代にあった日本の首都たる古代宮殿です。
645年~793年までの約150年間、天皇の居住地であり、政治や儀式の場として日本で初めて設定された場となります。
ところで、645年というと世界史を選択した私にも何となく聞き覚えがある年号です。
そう、「大化の改新」として知られる革新政治は、この難波宮で行われたことになります。
現在では、「難波宮跡 附 法円坂遺跡」として国の史跡に指定されています。
難波宮跡公園から見た大阪城です。
しかし、この遺跡が正式に調査され、難波宮跡として認められたのは、1960年に発掘調査により回廊が確認され、1961年に聖武天皇時代の大極殿跡が発見されてからのこと。
これは、戦時中は陸軍が用地一帯を摂取していたことで、調査ができなかったためです。
現在は、だだっ広い空き地の様な感じですが、2006年には万葉仮名で書かれたものとしては最古と思われる木簡が発掘される等、まだまだ未知の歴史歴遺物が残っていそうです。
鵲森宮
そんな難波宮跡を通り過ぎ、JR森ノ宮駅の西側に鵲森宮は鎮座されていました。
通称は森之宮神社で、この周辺の地名の由来となっています。
創建の由来
物部守屋との戦いを前にした聖徳太子は戦勝を祈願し、戦勝した暁には四天王寺を祀ることを誓いました。
そして無事に戦勝した589年7月に、寺の鎮守として現在の地に両親である用明天皇と穴穂部間人皇后を祀り、その後にこの森に四天王寺を建立しました。
四天王寺自体は、614年に現在の天王寺区に移転されましたが、神社はそのままこの地に置かれました。
名称の由来
「日本書紀」によるところでは、聖徳太子の命により使者として新羅に渡った難波の吉士磐金が、二羽の鵲(朝鮮烏)を持ち帰り、献上されました。
そして、難波の杜で飼ったと記述されていることから、この森であると推定されています。
それを機に、いつしか人々に「鵲の森」と呼ばれる様になり、神社自体も、「鵲の森之宮」と呼ばれる様になったそうです。
主祭神
拝殿の様子です。
主祭神は、創建当初の聖徳太子のご両親である用明天皇と穴穂部間人皇后に聖徳太子ご本人を加えた3神です。
創建当初は、千石余りの神領を持つ大神社でした。
しかし、織田信長の石山攻めの際に、武人たちに剥奪され、建造物にも火を放たれ社殿を含めた建造物を始め、辺り一面廃塵と化したそうです。
御零体のみは事なく持ち出され、別所に奉安され、再建時にお戻りになられたそうです。
大伴家持の歌碑
万葉集にある大伴家持の歌碑。
「鵲の 渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける」と鵲の森とこの付近に架かっていたと思われる橋の情景を読んだ歌です。
境内摂社の五幸稲荷社です。
狛犬:阿形さん。
手水舎です。
長年の水の滴りにより、石が欠けていっているのでしょうか?
社務所に向かうにも鳥居を潜ります。
御朱印を頂戴している間に、ふと見ると、
言われてみれば、聖徳太子は仏教のイメージで、四天王寺始め多数の寺院を建立していらっしゃいますが、聖徳太子が創建された神社は、この鵲森宮ただ一社だそうです。
「聖徳太子創建の宮」と書かれた直筆御朱印を頂戴しました。
ところで、鵲森宮には1942年に帝国海軍水雷艇「鵲」から鵲の剝製が献上され、現存しているということだったので、ちょっと拝見したかったです。